「チョークって・・・」
私は膝の上に置かれた学ランの肩をパタパタとはたきながら、つぶやいた。
チョークの粉は、普段はあんなに軽やかに浮きまくっているくせに、いざくっついてしまうとなかなか取れやしない。
空を見上げると、春の4時の空はまだ青くて、綺麗だった。


なんでこんな体育館の入り口で、学ランの汚れを取っているのか、というと、日直だった私が、ぼんやりと考え事をしながら黒板消しを外に向かってはたいていて、もう終わり!という頃に、ぼろり、と落としてしまったその落下地点へ運悪く彼が通りかかり、その肩に黒板消しがダイブした。
これから部活に行くところだった、という坊主頭の彼は、ぺこぺこと謝る私に、笑って「気にしないで」と言ってくれた。
優しい顔してそう言ってくれたので、うっかり泣きそうになりつつ(同じクラスだけど、あんまり話したことなかったので多少ビビっていた)、だからといって、「はいそうですか」と終わりにするわけにもいかないので、「部活中に綺麗にしておくから、預からせて」とお願いして、今、私は学ランをはたいている、というわけなのです。

「それでも、綺麗になったかなぁ」
他の部分と比べても分からないくらいには粉が落ちたようだったので、私は学ランを持ち上げて、全体と見比べる。
うん、まぁ大丈夫そうだ。
私はほっとして、学ランを抱えて立ち上がった。
これを渡して、もう帰ろう。
体育館を振り返ると、バスケ部の練習はもう始まっていて、声をかけるどころではなく、私は少しの間、練習を眺めていた。

ああ、そういえば彼はレギュラーなんだって、誰かが言ってたな、と思い出す。
特別目立つわけじゃないけれど、動きを見ていると、素人の私でも彼が上手いのが分かる。

でも、あの中にいると、普段は小さく見えない彼が、小柄に見えるから不思議だな。
顔はのほほんとしてるのに、すごい筋肉だなぁ、って、顔は関係ないか。

私は、自分の視線が彼を追いかけていることに気づいて、あわてて目を逸らした。
当分話しかけたりできる雰囲気じゃないことは分かっていたので、私は教室に置きっぱなしにしたかばんを取りに戻った。
頬がほんわりと熱くなっている。学ランをひじに抱え、両手を頬に当てる。

かっこよかったな、ともう見えなくなった体育館を振り返って、私は教室へ急いだ。



「うわ、ごめん!待たせちゃったの?!」

結局私は、部活が終わるまで話しかけられなくて、そのまま2階でバスケ部の練習を見ている大勢の女子に紛れて、彼を待ってしまった。
練習を最後まで見ていくのは部員の彼女がほとんどで、私が少し居心地の悪い思いをしながら、声をかけると、周りの視線がちらちらと刺さってくるのが、じんわりと体に感じる。
「植草、彼女できたの?!」
とか言われて、彼も私も顔が赤くなる。うわ、これじゃまるで付き合い始めのカップルだ、そう思いながら、少し嬉しい自分がしょうもなく可愛い。
「違うって!」
彼は必死に訂正して、簡単に理由を周りではやし立てる仲間に説明してから、外に出てきてくれた。
あんなに必死に訂正されると、今日彼がとてもかっこいい人だ、と気づいてしまった私は、ちょっと寂しくて、けれど、それは筋違いだとあわててその思考を振りとばす。

駆け寄って来てくれた彼に、
「私が勝手に待ってただけだから。練習見てるのも楽しかったし」
これじゃ言い訳にもなってないな、と思いながら、私は抱えていた学ランを渡す。
「ごめんね、本当に。落ちてると良いんだけど」
彼は学ランを受け取ると、ちらっと黒板消しの当たった肩の辺りを見て、大して確かめもせず、
「大丈夫、すごい綺麗になってる。ありがとう」
にこりと笑った。
「ちゃんと見なくて平気?」
つられて私も笑う。
「それじゃ」
学ランを渡したら、もう彼と一緒にいる理由がない。後ろ髪を引かれる思いで一歩後ろに下がって、足元に置いていたかばんを取り上げる。
「ほんとにごめんね」
もう一度謝ると、私はまた「それじゃ」と言って軽く手を振って背中を向けた。
体育館から少し離れたところまで行ったとき、後ろで彼が周りに何か言われているのが聞こえた。
きっとまたからかわれちゃってるんだ、と少し嬉しいような、申し訳ないような気持ちになって、足を速めようとした。

とき、


さん!」


振り返ると、彼が学ランを握り締めて、仁王立ちしていた。

体半分だけ振り返った状態の私は、くるりとまた彼に向かい合う。
「帰り、電車だよね?」
私は頷く。
「もう遅いし、良かったら一緒に帰らない?」
少し声を張り上げて言う彼に私がもう一度頷くと、すぐに着替えてくるから、と彼は部室の方へ走っていった。
私は、思いもよらない展開に、びっくりしつつもにやけてくる頬がこれ以上緩まないように、両手で押さえた。
走っていく彼の背中に、同じ学年の仲間たちが、何か声をかけている。
さん!あいつ、いいやつだからよろしくね〜!」
叫ぶ声がして(そういえば、この声の主も同じクラスだ)、私は笑って、「気が早いよ」と聞こえないようにつぶやいた。


それから10分くらいして、学ラン姿になった彼が走って戻ってきた。
「ごめんね、待たせて」と言った後、黒板消しがダイブした肩を指して、
「すごい綺麗になってる。ありがとう」
と笑う彼に、恋をした。