「失礼します」

がらりといつものように音を立てて戸を開けると、こちらに顔を向けた東仙が唇にそっと指を当てたのが見えた。
「静かに」
ということだろうか。
珍しく長椅子に座っていて、羽織は脱いでいる。
「書類の確認を...」
見えないのは承知で、やはり持っている書類を上げて見せようとしてしまうのは、こちらが見えるからなのだろう。
そんな檜佐木に向かって、また唇に指を当てる。いったい何なのだろう、と近づくと、長椅子に座った東仙の膝の上に、小さな頭が見えた。
「起きないとは思うが、小さな声で言ってくれ」
向かいの席を手で座るように示して、その手を膝の上の頭にそっと置く。
小さな頭についている小さな体は、隊長羽織の下に、すっぽりと埋まっている。
ここにいるからには、十三隊の一員なのだろうが、見覚えがない。
とりあえずそれは後回しだ。檜佐木は書類をなるべく小さな声で読み上げ始めた。
膝の上の頭は、ぴくりとも動かず、東仙の指は時折小さな頭につけられた髪飾りに触れ、しゃらりと、それを揺らしている。的確な答えを返しながら、指先で遊ぶ様を、視界の端に捕らえながら、檜佐木は書類を読み進めた。


小さな声のやり取りの後、檜佐木が書類をまとめていると、小さな頭がむくり、と起き上がる。
「目が覚めたかい?」
小さな体は、大きさで言えば、おそらく十一番隊の副隊長くらいだろうか。けれど、死覇装ではなく、仕立ての良い高価そうな着物姿をしている。
「もう私も仕事の時間だからね。送れないけれど、帰れるかい?」
しばらくぼんやりと東仙の顔を眺めていた小さな少女は、頷き、肩にかかっていた羽織を東仙の肩に掛けた。それからようやく檜佐木に気付き、
「あ」
と小さな声を立てる。
「檜佐木 修兵。僕の部下だよ」
先に檜佐木を紹介してから、檜佐木の方へ顔を向けると、
「こっちは
少女の頭を撫でた。
くすぐったそうな顔をしたあと、と呼ばれた少女が、小さく檜佐木に向けて会釈をし、立ち上がった。
「またね、東仙隊長」
「またおいで」
「修兵くんも、さようなら」
くるりと振り返って、檜佐木を見てにこりと笑うと、は返事も聞かずに部屋を出て行ってしまった。


「くん、って...」
あんな小さい子どもにくん付けで呼ばれるとは。
少し唖然としてもう閉まっている扉を見ていると、羽織に袖を通していた東仙が笑った。
「申し訳ない。私が名前まで紹介してしまったから、くん付けになってしまった」
「あ、いや、まぁ、いいですけど...」
「今度からは、檜佐木副隊長と呼ぶように言っておくよ」
「あ、はぁ」
まとめた書類を片手に、そっと東仙の顔を伺う。
「どこかの隊のものですか?」
振り返った東仙と視線がぶつかる。実際はぶつかっていないが、それほどにぴたりと顔の位置が、こちらを向いている。
「いや、彼女は死神じゃない」
「ですが...」
死神でないものが、十三隊の中をうろつけるものなのだろうか。
「まぁ、私の友達のようなものだよ」
にこり、と笑って東仙が立ち上がる。それ以上は聞けず、檜佐木も立ち上がり、席へと戻った。書類に印を押し、提出しなくてはならない。






全ての書類に印を押し、それを抱えてまた部屋を出ると、さっき出て行ったはずのが、隊舎の入り口で空を見上げていた。
「なにしてんだ」
くるりと振り返った顔が、一瞬戸惑って、すぐににこっと笑った。
「修兵くんだ!」
「おう」
「修兵くん、夕焼け!」
見上げれば、太陽が沈もうとしているところで、あたり一面、赤く染まっている。目の前で笑う小さな体も、夕焼けに染め抜かれたように赤い。
「きれいだね、夕焼け」
隣に立った檜佐木の顔を見上げて、また笑う。
さっき東仙が触れていた髪飾りが、小さく揺れている。
思わず、手がその髪飾りに伸びた。
「音、聞こえる?」
しゃらり、と揺らす檜佐木の手をはらいもせず、されるがままになりながら、が少し顔を上げる。
「音?」
「うん。髪飾りの音。しゃらしゃら言う?」
「耳傍に持ってかないと、聞こえねぇだろ、さすがに」
も聞こえない。けど、東仙隊長は聞こえるって」
「へぇ」
「音がするから、だって分かるよって言うからね、これ、毎日つけてるの」
照れたように笑う顔は、幸せそうで、つられて自分の口元が緩むのが分かる。
「そっか」
「うん」
「ところで、お前、どこ住んでんの? このあたりか?」
「うん。あのね、あっちの方。そんなに遠くないよ」
指差した方は、上流貴族の屋敷が立ち並ぶ方向。着ている物からしても、まぁその方向だろう、とは思いつつ、ますます東仙とどういった知り合いなのか、分からなくなる。
「一人で帰れるよ?」
「え、あぁ、そうだな」
「前ね、迷子になったけど、もうだいじょぶなの」
「迷子?」
「うん。迷子になったらね、東仙隊長が連れてきてくれたの」
「それで知り合ったのか」
「うん」
「そっか」
わかったような、わからないような。
けれど、なんとなく納得して、ずっと触れていた髪飾りから手を離した。小さく音がした気がした。






「戻ってこないから何をしているのかと思ったら」
もう暗くなってしまうから、と慌てて走っていったの後姿を見送っていると、後ろから声がする。
持っていた書類を落としそうになりながら振り返ると、呆れたように笑う東仙が立っていた。
「隊長」
「そんなに気になったのなら、私に聞けばよいのに」
「あ、いえ。申し訳ありません」
ばらばらになりかけた書類を両手で調えながら、近づいてきた東仙の後ろにつく。
「で?」
「は?」
「まだ聞きたいことがあるのだろう?」
まるで顔色を見たかのように言い、こちらを振り返る東仙の口元は、軽く微笑んでいる。
「あ、はぁ。あの...」
これから聞くことも全て見透かされているかと思うほど、まっすぐに目が合った。






少しうらやましかった、と言ったら笑われるだろうか。






足音よりも先に髪飾りの揺れる音が聞こえるのか、と聞いた。
東仙は一瞬、きょとんとした顔を見せたかと思うと、声を立てて笑った。
「そんなわけないだろう。いくら私の耳が良かったとしても、あんな小さな音が足音よりも先に聞こえるわけがない」
「はい?」
「嘘だよ。に言ったのは嘘だ」
「嘘?」
「そう。けれど、内緒にしておいてくれ」
「はぁ」
なんだか調子が狂う、いつもの隊長とは違いすぎだ、と思いながら、檜佐木は頷く。
これなら音がするからだとすぐに気付く、と言ってから、が毎日あの髪飾りをつけるようになったのだ、と東仙は優しい顔をして笑った。
本当は気配で気付いていても、髪に触れるとあの髪飾りがついているのが分かる。
だから、には髪飾りの音で気付いている、と思わせていてくれ。
そう言って向けた顔は、任務に当たっているときには見せたことのない、穏やかなものだった。
その言葉に頷きつつ、つられて東仙の顔が向いた先を見ると、振り返ってが手を振っているのが見えた。
そっと東仙を見やると、東仙もに向かって軽く手を上げている。
こんなに離れていても気配で分かるのか、と驚くと同時に、きっとは、髪飾りの音がそこまで聞こえたと思っているのだろう、と気付き、檜佐木は頬を緩めた。
手を振り合う二人を見ながら手元の書類をもう一度軽くまとめると、小さく頭を下げてその場を離れた。