少し離れた場所で、賑やかな話し声が聞こえる。
中心にいるのはいつも同じ人で、けれど、彼の声がしてくることはほとんどなくて、聞こえてくるのは囲んでいる女の子の声ばかり。
時々何か返事をしているようだけれど、それは可愛らしい声にかき消されて机に向かっている私の元には届かない。
「相変わらずですねー」
書類を持って私の前に立った隊員が、苦笑いをしている。
「春先は特に、ね」
差し出された書類を受け取って別な書類を渡しながら、私も少し眉を寄せて笑う。
「新人が来ると、だいたいああなりますね、ここんとこ」
「まぁ、人気がないよりもある方がいいけどね」
見るともなしに二人で眺めていると、視線に気付いた彼が、囲んでいた新人隊員たちになにか声をかけて、こちらに向かってきた。
「モテモテですね、副隊長」
からかうような顔をして笑う隊員のわき腹に、軽くパンチを入れて、
「どうせすぐに終わるだろ」
な、と私の顔を見て笑った。私もお愛想のように笑う。
「で、可愛い子いました?」
「お前も、毎年飽きもせず同じこと聞くなぁ」
「まぁ恒例行事ですよ」
「じゃあ、答えも同じ。恒例行事」
二人のやり取りを、視線は書類に移して音だけで聞く。恒例行事、と言うのなら、答えは「なし」ってことなんだろう。少しだけ安心している自分に、思わず苦笑いが浮かんだ。
笑ったのを隠すように筆を手に取れば、仕事再開の合図と取ったようで、「それじゃ」と私から受け取った書類をひらひらとさせながら、隊員は自分の部屋へと帰って行った。

顔を上げると、まだ前に立っていた彼の指先が私の額に触れる。
「な、に」
「眉間、しわ寄ってんぞ」
に、と笑った彼の指が軽く眉間を弾く。
慌てて額を押さえて額のしわを伸ばすように撫でる私を、少し意地悪そうな顔で眺めている。
「あんましそんな顔ばっかしてると、取れなくなるぞ」
誰のせいだ、って言いたくなるけれど、こればっかりは私の心の中の問題。少しむくれた顔をしてみせる。
「そういう顔もしない」
両手で私の顔を包むようにして、膨らませた頬から空気を抜く。
そんな私たちをきっとじっと見ていたであろう新人隊員の、大きな悲鳴がこちらにまで聞こえてくる。
「誤解されてるよ、檜佐木くん」
女の頬に両手を当てている副隊長の図は、彼女たちの目にはどう映っているのだろう。
私はどう映っているのだろう。
「毎年、そうやって私を矢面に立たせるのは止めてほしいんだけど」
この季節だけ、いつも以上に檜佐木くんは私をかまってきて、そして私は彼に憧れや恋心を抱く新人から羨望と嫉妬のまなざしを受けてしまうのだ。
そのうち私と彼の間には何もない、というのが分かってくるし、彼が誰とも付き合う気がない、というのが分かってくるから、自然鎮火していくけれど、それまでの間に向けられる視線は針のように痛い。
面倒から逃げるために利用されていると分かっているから、余計に痛い。
けれど、今だって頬に当てられたままの手を、振り払おうともしない私だって、この季節だけのこの特権を期待している。
「すぐに終わるだろ」
「そりゃ、そうだけどさ」
「告白とかされてもなぁ、どうせ断るだけだし」
私の頬から手を離すと、まだ廊下からこっちを伺っていた新人たちに、「お前ら、休憩終わり。持ち場に戻れよ」と声をかけた。
ちらちらとこちらに視線を向けながらも去っていく新人たちを、中途半端な笑顔で見送って、私はため息を漏らす。
「今年も当分、針の筵だー」
「まぁまぁ」
「まぁまぁじゃないよ。誰のせいだ誰の」
一度置いた筆をまた取り上げて、書類に向かう。
「そのうちメシおごるから」
「そのうち、ねぇ。檜佐木くんの「そのうち」はお流れになることが多いからなぁ」
去年の今頃、同じようなこと話して、同じように奢るって言われて、結局流れたことを思い出した。
どうせその程度なんだろうけれど。
1週間くらいは期待して「メシ行くか」って言われるのを待つけれど、そのうち待っても意味がない、って気付いて、私は一人で苦笑いする。
檜佐木くんは社交辞令で言っただけだ、期待した自分がバカだ、って少しだけ自己嫌悪に陥るけれど、それもほんの少しの間だけで、私だってすぐに忘れる。
それくらい日常的な会話だ、ってことなんだろう。
檜佐木くんの態度や言葉に、心の中で一喜一憂して、期待して、待って、けれど先に進もうとしないのは、きっと私がこの日常に満足してるから、ってこと。
いつもなら何かしら言葉を返してくるのに何も返ってこないから、檜佐木くんの顔を見上げれば、窓の外を眺めながら、少し眉を寄せて考え込んでいる。
「うそだよ。そのうち、副隊長がヒマなときに、あんみつでも奢って」
ね、と返事を催促するように言えば、ようやく顔をこちらに戻して、けれど眉は寄ったままで笑った。
には迷惑かけてばっかだしな。あんみつとかちいせぇこと言わずに、ちゃんとメシ奢るから」
「迷惑って・・・」
今度は私が眉を寄せる番だった。
迷惑だなんて、思ってないよ。
言えずにそのまま書類に視線を戻した。
「期待せずに待ってる」
それだけ、なるべく軽く聞こえるように言って、筆に墨を含ませた。
小さく笑う声がして、私の頭を、ぽんぽん、と檜佐木くんが軽く叩いた。
「期待しとけ」
それから檜佐木くんは部屋を出て行って、私は檜佐木くんが見ていた窓の外を眺めた。
桜が満開だった。