「なんだ、まだいたのか」 戸を開ければ、向こう側に座って見慣れた顔が小さく笑っていた。 「書類が終わんないの」 筆を片手に、片手を横に積まれた書類に載せる。 「、居残り多すぎないか?」 「そんなこともないけど」 近くまで寄って覗き込めば、本来がやる必要もないものも多く混じっている。どうせお人よしのこいつのことだから、他の誰かから頼まれたのを否と言えなかったのだろう。 「また押し付けられてんのか。ほんと、要領悪いな、お前」 「む」 「ま、そこがのいいとこだよ」 ふてくされたような顔が、一瞬きょとんとして、すぐにぽわんと笑顔になる。 学生時代からの付き合いだけれど、この笑顔は可愛いと思う。 普段は別にこれと言って引っかかるところのない見た目なのに、時々浮かべる笑顔はひどくを綺麗に見せる。本人に言ったことはないけれど。 「褒められてるんだか、けなされてるんだか、わかんないけど」 筆を置いて、また目を合わせてきて、 「ありがとう。褒められたんだと思っておく」 へへ、と照れたように笑う。 「まぁ、あんまり無理すんな。今日中にやらなくてもいいのは後回しでいいから」 「はーい、副隊長」 さっきから笑ったままの頬を、軽く引っ張る。思っていた以上に柔らかい感触に、指先が瞬間止まった。軽く頬に触れたような、おかしな状態を振り切るように、もう一度今度は両手で引っ張る。 「いひゃい」 「なに言ってんだか、わかりませーん」 「いあいー」 「に副隊長って呼ばれると、含みがあるように聞こえんだけど」 は自分の手で頬から俺の両手を引き剥がした。 「失礼しちゃうなぁ。尊敬の念とかいろいろ込めてるんだよ」 「ほんとかよ」 「うん、ほんと」 繋いだままだった手を、軽く上下に揺らして、にっと笑う。さっきとは違う、こどもみたいな顔で。 笑った顔なら全部愛らしい、と、初めて意識した。 「じゃあ、そういうことにしといてやる」 意識したのが表に出ないよう、繋がっていた手を離した。指先に感触が残っている。冷たい自分の指先が融けるほど温かい、の手。 「で、それ、今日中なのか?」 「のもあるし、明日でも大丈夫なのもある」 「手伝ってやろうか」 「いやいや、大丈夫。副隊長は明日、定例でしょ? 帰って休んだ方がいいよ」 さてと、とまた筆を握って、書類に向き合う。こちらに向いていた視線が、下に落ちる。 「ほんとに大丈夫だよ」 隣に立ち尽くしたままの俺に、下を向いたままのが言う。筆はすらすらと綺麗な文字を連ねていく。 「おう。じゃ、な」 「うん。お疲れ様です」 下を向いたまま、筆を置くこともなく、やけにあっさりと。 部屋から立ち去らずにもう一言待ってしまったのは、だから、また笑った顔を見せて欲しいとかじゃなくて、せめて挨拶くらいは顔を見てしろ、と思っただけの話だ。 けれど、は顔を上げることはなく、ほんの少しだけ、時間にすれば2秒くらい待って、俺は背を向けて扉を開けた。 じゃあな、くらいはまた言うべきか、外へ一歩踏み出したときに頭を過ぎった。 その逡巡を見透かしたように、 「あ」 小さな声が聞こえた。 「檜佐木くん」 役職で呼ばれるよりも、甘く聞こえるのは思い込みだろうか。 振り返れば、こちらを見ていると目が合う。 「また明日」 筆を置いて、小さく手を振る。あの笑顔で。 口元が緩んでいく感覚。 「おう、また明日な」 軽く手を上げて応えて、ふと聞き忘れたことを思い出した。 「なあなあ」 「ん?」 また筆を握っていたが、顔を上げる。 「尊敬の念とかいろいろのいろいろ、ってなに?」 こちらを見ていたの顔が、面白いくらい慌てたのが分かった。 「なに?」 もう一度畳み掛けるように繰り返せば、 「それも、また明日」 真っ赤な顔で、それでも笑って、筆を握っていない方の手を振った。俺も笑って今度は手を振る。 「おう、じゃあまた明日な」 扉を閉めてから、一層緩む口元を隠すように片手で顔を覆った。 明日は朝一で、「いろいろ」の答えを聞き出してやろう、そう思った。 |