何度も何度も外を見に行ったり、廊下へ出たりする隊員たちに、落ち着け、というのはなかなか難しい。
副隊長直々に呼び出されて、虚の討伐に出た彼が帰ってこないから。
隊長は、「修兵なら大丈夫」と、口の端に笑みすら浮かべて言うけれど、皆が戻ってくるだろうと思っていた時刻になっても、彼は帰ってこない。
何かあったんじゃないか、ひそひそと取り交わされる会話が、途切れ途切れに耳に入ってくる。
私は筆を置いて、扉を開けて廊下を覗いている隊員の背中に、
「ほら、席に戻る」
少し大きめな声を出す。
「だって、心配じゃないですか」
泣きそうになりながら振り返る顔に、私は笑って、
「副隊長なら、大丈夫」
隊長と同じ言葉を繰り返す。
大丈夫。
きっと帰ってくるから。
何事もなかったかのような顔をして、「ただいま」って言ってくれるから。
「だって、遅いですよ」
机に向かっていたはずの隊員も、窓の外をじっと眺めている。
さっきまで晴れていた空は、天気を変えて今にも降り出しそうに暗くなっている。
雨に降られる前に帰ってくれば良いけれど。
つられて窓の外を眺めてから、私は心配そうな顔を見せる周りに、
「うちの副隊長なんだから、大丈夫」
もう一度繰り返した。





終業時間になってもまだ戻らない彼を気にして、誰も帰ろうとしないのを、オウムのように「大丈夫」と繰り返して帰らせると、私はまた一人で書類を手に取る。
さっきから、ちっとも進まない。
気付けば、ぎゅっと筆をきつく握り締めて、ただただ目の前の書類を眺める自分がいる。
「大丈夫」
何度も呟いた言葉をまた繰り返して、進んでいない書類を片付けるため、筆に墨を含ませた。
この書類を書き終えるまでに、帰ってきて。
祈るように、願うように筆を進める。
もう少し、あと数行。
窓の外に目をやれば、ぽつりぽつりと雨が窓に当たっている。
もうすぐそこまで来ているだろうか。
隊舎のそばまで来ているといいのに。
濡れる前に帰って来てくれればいいのに。
けれど、書類を書き上げても、まだ扉は開かない。
もう一枚。
今日中に仕上げなくてもいいものだけれど、これをやってしまおう。
きっと、これが終わる頃には、いつものように「ただいま」と勢い良く扉を開けて帰ってくる。
私はまた筆に墨を含ませて、書類へ向かう。
雨が打ち付ける音が強く響く。
本降りになってきた。
びしょぬれになる前に帰ってきますように。
願うようにまた筆を進める。
これが終わる前には、あの扉が開く。
「まだいたのか」
って、いつものように笑って、
「いやぁ、すげぇ雨。びしょぬれなんだけど」
とか言ってくれる。
ぶるぶるとわざと頭を振って、私に水飛沫をかけてくる。
そんな姿を思い描いたら、少し笑えた。



「冷てぇ」
がらり、とようやく扉が開いた。
予定の枚数を遥かに超える書類を片付けて、それでも戻らない彼を探すかのように雨の向こうを眺めていた私は、突然開いた扉に、思わず肩を震わせた。
「お、。やっぱりまだいたのか」
廊下の明かりで逆光になっているけれど、少し笑っているのが分かった。
「こんな暗い部屋で待ってんなよ、誰もいないかと思ったじゃねーか」
ぱちり、と明かりを点ける。
急に明るくなった部屋に、何度も瞬きをしていると、びしょぬれの彼がそばまで来ていた。
「すげぇ濡れたんだけど」
頭を振って、水を飛ばす。
「ちょ、濡れるから!」
顔を逸らしながら、机に置いていたタオルに手を伸ばして頭を振り続ける彼の髪を包む。
「おかえりなさい」
タオルから手を離しながら言うと、
「だたいま」
口の端を少しあげて、頭に載せられたタオルで、ごしごしと髪を拭く。
その間に、彼の体を上から下まで、確認する。
小さくため息が漏れた。
「ケガなんか、してねぇよ」
下を向いた私の額を、彼の湿った指先が弾いた。
「うん」
額を押さえる。
「うん」
ほっとして、安心して、涙が出そうだった。泣かないように、両の手のひらを握り締める。
「みんなね、心配してたよ。帰り、遅いから」
「のわりに、誰も残ってねーじゃんか」
「檜佐木くんなら大丈夫だから、って、私が帰らせた」
「じゃあ、なんでお前が残ってんだよ」
タオルを首にかけた檜佐木くんの手が、握り締めた私の手のひらを開かせた。
「一番心配してるくせに」
私の手のひらを、彼の親指がそっと撫でる。
「心配しすぎて、帰れなかったんだろ」
手のひらに触れる彼の手が暖かい。
「泣いてもいいぜ、どうせ俺濡れてるし」
びしょ濡れの胸に押し付けられて、我慢していた涙が零れた。
「何十年一緒にいると思ってんだよ、なんでもお見通しだっつうの」
空いていた片手で、彼の死覇装を握り締めた。ぎゅ、と手のひらが濡れた。
頬に触れる濡れた死覇装の向こうから、彼の温もりが伝わる。
「お前、心配事あると、爪立てて我慢するくせあるからなぁ」
ゆっくりと優しく髪を撫でる手に、止めようとしても涙が零れて、すでに濡れている彼の死覇装にしみこんでいく。
小さくため息が漏れるのが聞こえた。
仕方ないな、というときのため息。
「まぁ、俺が心配させたんだしな。好きなだけ泣け」
手のひらに出来た爪の痕を撫でていた手が離れて、私の体が強く引き寄せられる。
頷こうとした顔が、下を向くよりも前に、胸に押し付けられる。
「ちょ」
「んー?」
両腕の力が強くなる。
「ちょ、く、苦しい!」
「なんだよ、せっかく俺の胸を貸してやろうと思ったのに」
どうにか体の間に腕を割り込ませて距離をつくり、文句を言うために見上げれば、悪戯な笑みを浮かべた顔が見下ろしている。
「顔、ぐしゃぐしゃ」
「誰のせい?」
「俺」
「ほんとだよ。反省して」
「へいへい」
目の前にある自分の腕に、額を押し当てる。
口元が綻んでいくのが分かる。
良かった。
無事で。
帰ってきてくれて。
背中に回された腕が、今度は優しく私の体を締め付けた。


「あー、
ほんの一時、数えられる程の間、お互い何も言わずそのままだったのを、申し訳なさそうな彼の声が遮る。
「こうしてたいのはやまやまなんだけど」
見上げると、
「俺、まだ隊長のとこ行ってないんだわ」
「はい?」
「だから、帰ってきたって言いに行ってない、わけ、なんですが」
ぐい、と彼の体を押しのける。
「な、先にそっちでしょ? なんで最初に隊長のとこ行かないの?」
ばっかじゃないの、と喉もとまでせり上がってきた言葉は、
「お前が心配してると思ったから、こっちが先だった」
照れたように笑う顔に、簡単に引っ込んでいった。
本当にずるい。
きっと私の顔は赤くなっている。
「さて、も泣き止んだし、隊長のとこ行ってくる」
片手でぐしゃぐしゃと下を向いた私の髪を撫でて、
「すぐ済むから、泣かずに待ってろよ」
少し上を向かせる。笑った彼と目が合った。
「ちゃんと毎回ただいまって言ってやるから」
私も笑って頷いた。

「いってらっしゃい」