あとほんの少し。 爪先立ちをしたところで届かないのは分かっているし、指先が本のしたの部分にすら触れていないのも分かっている。 けれど、あの資料を持って帰らないといけないのだ。 周りを見渡しても誰もいないし、踏み台があればまだしも、それだって見当たる範囲には存在していない。 最終手段は、あれか。 あれをやるしかないのか。 棚の二段目をじっと眺めて、私は仕方ない、と自分に言い聞かせる。 「お前、棚に乗るなよ」 持ち上げた足が、不安定に揺らめいて、私は思わず声を上げる。 「なにやってんだ、もう」 片手で私の背中を支えた顔を、そっと見上げた。 「届かないなら、ちゃんと台持ってこいよ」 呆れた顔をした檜佐木くんがいた。 「見つからないから、しょうがないかなぁ、って思って」 えへ、と笑うと、頬をむにっと掴まれて引っ張られた。 「棚が倒れたらどうすんだよ。つまんねぇとこでケガすんな」 ひんやりとした指先が、撫でるように頬から離れる。 離れると同時に、逆に今度は一気に熱を持ったかのように、頬が熱くなる。恥ずかしくなって下を向いた。 「ごめんなさい」 「まぁ、いいけど。で?」 きっと赤くなっているだろう顔を上げると、 「なに取ろうとしてた?」 私の方は見ずに私が手を伸ばしていたあたりの背表紙を眺めている。 赤くなった顔を見られなかったことに安心しつつ、私は欲しかった資料の題名を告げる。 彼はいとも簡単に、本の上を軽く引いて取り出した。 「ありがとう」 ほら、と渡された本を受け取って胸に抱える。 「それで全部か?」 「うん。あとはあっちに置いてあるから」 本に目を通すため置かれている机の方に目をやって、私はもう一度「ありがとう」と繰り返した。 「檜佐木くんって、優しいよね」 机に積んでいた本は、全部檜佐木くんの腕に収まった。 どうせ同じ場所に戻るなら、持ってやる、そう言って私には1冊も持たせてくれなかった。 大股で歩く彼から遅れないように、時々小走りになりながら、私がそう言うと、突然彼が足を止めた。 「そうか? あんま言われたことねぇよ」 私が横に並ぶと、また歩き始める。今度は少し歩調を緩めたのが分かる。小走りになる必要がなくなったから。 「みんな言ってるよ」 「嘘くせぇな」 「ほんとほんと。でね」 私は何も持たず手持ち無沙汰な両手を後ろで組んだ。 「そんな優しい彼がいつまで経っても独り身なのは、これいかに」 ちらりと視線が振られるのが分かる。 「ということも言ってる」 「なんだそれ」 「檜佐木くんはもてる、ってことですかね」 「言ってることが合ってねぇよ」 呆れたような言い方に、少しだけ笑った。 「もてる檜佐木くんにどうして恋人が出来ないのか、が、九番隊の七不思議のひとつらしいよ」 くくく、と笑いを漏らすと、横からすこん、と蹴飛ばされた。 痛い、と言いながら少し離れると、不機嫌そうな顔がこっちを見ている。 本気で怒ってないのは、長い付き合いだから分かる。 その長い付き合いの中、彼に恋人がいなかったことも知っている。 彼が私に恋人がいなかったことを知っているように。 けれど、私がなぜ彼に恋人がいなかったのかを知らないように、彼もまた私がなぜずっと独りでいるのか、その理由にはきっと気付かない。 何でも知っているようで、実は何も知らない。 そういう関係なのかもしれない、と時々無性に寂しくなる。 だから、なるべく笑って過ごす。 考え込んだら、落ち込む一方だから。 「出来ないんじゃなくて、作んねぇんだよ」 「好きな子とかいないの?」 話の流れに流された。 今まで聞かずに過ごしてきたことを、思わず聞いてしまった。 彼の足が止まった。 三歩ほど進んで、私も止まった。 「」 振り返れば、まじめな顔でそう言うから。 まっすぐこっちを見て、そう言うから。 もしかして。 期待してしまう。 けれど、 「・・・てのはうっそー」 にやっと笑った顔に、がっかりしたのを気付かれないように、 「なにそれー」 声を上げて笑った。 「期待した?」 隣に並んだ彼の顔が見られない。 「しないよ、いまさら」 「だよな。腐れ縁みたいなもんだもんな、ここまで来ると。付き合うもなにも、もう、なぁ」 「ねぇ」 笑うけれど、泣きそうだ。 隣り合う彼とは反対側の手を、見られないようにぐっと爪を立てて握り締めた。 「俺たちがそうなるとか、考えられないよな」 なんでもない事のように言う、あっけらかんとした声に、 「そうだね」 それだけ返すのが精一杯だった。 「あ、ここでいいよ。檜佐木くん、執務室帰るんでしょ? 私、こっちだから。ありがとう」 彼の腕から奪い取るように資料を取り上げると、自分の腕に抱えた。 「ありがとう」 あと10センチ、背が高かったら。 あの本も自分で取れて、彼にとってもらうこともなかったのに。 優しいね、なんて言わなくてすんだのに。 好きな人の話なんて、出てこなかったのに。 伸ばした指先は、結局届かないまま。 伸ばしても伸ばしても、届かないまま。 |