起きていなくて良いよ、なんて言ったけれど、電気の消えた屯所に帰るのは少し寂しい。
そう思って帰ってきたら、玄関の明かりが点いていて、思わず顔が綻んだ。
体は降ってきた雪で冷え切っていて、一日の疲れが寒さとともに纏わりついて来ているけれど、「おかえりなさい」の一言がもらえたら、それだけで疲れも飛ぶんじゃないかなんてことを考えた。


廊下を音を立てないように歩いていくと、中庭に人影が見えた。

肩に、髪に、雪を少し積もらせて空を見上げているのは、「おかえりなさい」の一言が欲しかったその人で。
愛しい人を見上げるかのような優しい顔をして、舞い落ちる雪を受け止めていた。
声をかけようと引き戸に手をかけたとき、誰かが彼女に近づいていくのが見えた。
思わず戸にかけた手を離して、そっと二人から見えない位置に隠れる。

彼女の横に立ったのは、


「副長...」


閉まったままのガラス戸の向こうで何か話している言葉は聞こえてこない。
副長の手が、彼女の髪に伸びる。
「...んだよ」
普段の態度とは180度違うじゃんか、そんな優しいこと、今までしたことないじゃんかよ。
ガラス戸に寄りかかって、小さくため息をつく。
副長が近づいたときも、髪に触れられたときも、彼女は驚いた様子もなくそれを自然に受け止めていて、あぁ、もしかしたら二人の間はそういう関係が築かれていたのか、なんてことまで頭を過ぎった。
少し目を離して、それからまた振り返ったとき、副長の腕が彼女を抱きしめていた。
そして、彼女の腕もそっと副長の背中に回った。

音を立てないように、そっとそっと部屋に戻った。
廊下の冷たさが全く分からないほど、足の指は冷え切っていて感触がなくなっていた。
部屋の戸を開けて、電気もつけずに上着を脱ぐ。
着替えてもう寝てしまおうか。
温かいものが飲みたいけれど、食堂に行くにはあの中庭を通らないといけない。
ゆっくりとシャツのボタンを外していると、さっきの光景がフラッシュバックのように頭を過ぎる。
何を期待していたんだろう。
口元が歪む。
隊服をハンガーに掛け、寝巻きに着替える。
窓の外では、まだ雪が降り続いている。
明日の朝にはかなり積もって、沖田隊長が雪玉を作っては副長に向かって投げて、それにぶつかったり避けたりしながら副長が怒鳴って、呆れたように局長がそれを眺めて、そんな光景が普通に繰り広げられるんだろう。
そのとき、副長を見る自分の目は、どんなだろうか。
普通に接せられれば良いけれど。
また小さくため息をついて、自分の布団に足を突っ込む。
どうせ寒いんだから、と身構えて延ばした先に、何か温かいものがぶつかる。
温もりを確かめるように指先で形を追うと、それは丸い湯たんぽで。

「全く...」

布団に顔を埋めて笑った。
全く、こういう小さな優しさをいくつも誰にでも見せて。
勘違いするじゃないか。

足を湯たんぽにくっつけたまま、布団を腹の辺りまで掛けて外を眺めていた。
あの二人ももう部屋に戻っただろうか。
指先がゆっくりと解凍されていく。
明日も早い。そろそろ眠ろうか。
体を布団へ滑り込ませようとしたとき、入り口の戸が軽く叩かれる音が聞こえた。
するり、と開いた細い隙間から、

「山崎さん」

呼ぶ小さな声が聞こえた。
温まった足をまた布団から出して、開いた戸に近づく。
少し開いた戸の隙間に手を入れて、ゆっくりと開けていくと、入り口の前に座り込んでいたのは彼女で。
「ごめんなさい、もう寝てました?」
寝巻き姿を見て、少し慌てたような声を出す。
「いや、まだ寝てないけど」
さっきのを見ていたせいか、声のトーンを上げられない。けれど、彼女は特に気にした様子もなく、にこりと笑って、
「おかえりなさい」
小さな声で言った。
「ただいま」
立ち上がろうとする彼女に手を差し伸べる。ひじの辺りを掴んで優しく立たせる。
「玄関の明かりが消えてたから、お帰りになったんだな、と思って」
食堂に並んで向かいながら、彼女が小さな声で話すのを、聞くともなしに聞いていた。
「もうお食事、済まされてます?」
山崎さん? と名前を呼ばれて、はっと意識を戻す。
「あ、ごめん、なに?」
「お食事、もう済んでますか?」
少し笑いながら、彼女が顔を見上げてくる。
「あ、いや、うん。まぁ」
食べてはいなかったけれど、作らせる手間を考えて思わず曖昧な返事になる。
「食べてないですね、山崎さん。寒いですもんね。何か温かいもの作りますね」
曖昧な答えの向こうを読んだように彼女は微笑むと、明かりの点いた食堂へ一足先に入っていく。
続いて食堂に入ると、どっかりと腰を下ろした副長の後姿が見えた。
足音に気付いたのか、振り返った副長に「戻りました」と挨拶をする。副長も、「おう、お疲れさん」と軽く手を挙げる。
少し離れたところに座って、任務について少しやり取りをする。
「詳しいことは明日、局長にもお話しますが...」
眠そうな顔をしている副長にそう言うと、
「あぁわりぃ。先寝るわ」
器用に銜え煙草のままあくびをして立ち上がり、お盆を持って近づいてきていた彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「お前も、雪ん中立ってたんだから、あったかくして寝ろよ」
少し口元を緩ませて言うと、銜え煙草で食堂を出て行った。
本当に見たことないよ、そんな顔。
少し唖然として眺めてしまった。けれど、彼女はあまり気にした様子もなく、「おやすみなさい」とだけ言って食堂を出て行くまで背中を見送って、何事もなかったかのように食事を並べ始める。

「雪、見てたの?」

食事が済むまでお互い黙ったままだった。
彼女は湯飲みを抱えたまま、ずっと雪が降る窓の向こうを眺めている。
食べ終わると、こちらに視線を戻して、「お茶、入れますね」と立ち上がる。
その背中に、ようやく声をかけた。

「え?」
「さっき。副長が雪の中立ってたって言ってたから」
「あぁ」
湯飲みを盆に載せて戻ってきた彼女は、笑って、
「雪が降ってくるのを眺めてたら、土方さんが起きてらして」
「ふ〜ん...」
「何やってんだって言われちゃいました」
はい、と湯飲みをことりと前に置く。
そしてまた窓の外に目をやる彼女の顔は、やっぱり好きな誰かを想うその顔で。
それは、おそらく副長に向けられている顔とは違っている。
なんとなく、そう思った。


彼女にそんな顔をさせているのは誰なのだろう。
雪に重ねて、誰を想っているのだろうか。


つられて外を見る。
ただ黙って外を見る二人の間からも、周りからも、外からですらも、音という音が消えたかのような静けさが降りてくる。
まるで、雪の降ってくる音が聞こえてくるかのような静けさだった。
また彼女に視線を戻す。
彼女の顔は、まだ誰かを想うその表情のまま、雪が降り続くのを見つめている。


ちゃん」


名前を呼んだ。
どこか遠くへ行ってしまいそうな彼女を連れ戻したかった。

ふ、と視線をこちらに戻した彼女と目が合う。


「起きててくれて、ありがとう。湯たんぽ、ありがとう」


雪を見つめる彼女のその表情は、とても美しくて、とても遠い。
だけど、一緒にいる今は、傍にいて欲しい。
自分の想いじゃ、彼女をそんな美しい人にはしてあげられないけれど。
はにかんで笑うその顔をとても愛しいと思うから、どうか、傍にいる今は、こっちを見て笑っていて。