なんかだるいな、と思いつつ部室へ向かう。
頭も重いし、体も重い。
ぼんやりとした気分のまま部室のドアを開けると、先輩が机に向かっていた。


「あれ? 信長、どうしたの?」
何か書いていた手を止めて、先輩が俺の顔を見る。
「先生に呼ばれてて。で、遅くなりました」
先輩の向かいの椅子を引っ張りだしてそれに座る。
「何やってんすか?」
「あ〜、これ? ほら、引継ぎ。2年にマネージャーいないから、春合宿のこととかわかんないでしょ?」
ちゃんと書いておいてあげないと、と先輩はペンを持ち上げて笑った。
「そっか・・・」
先輩ももう引退したんだった、とようやく思い出す。
牧さんも、高砂さんも、みんな、3年は冬の選抜が終わり、引退した。
と言っても、付属の大学に進学かバスケで推薦と進路は決まっているので、練習にはよく参加していて、あまり引退した、という印象がなかった。
なんかちょっと寂しい。
俺は先輩から目を逸らして、机にひじもつかずに横向きで頭をつける。
「なに、どうしたの?」
少し笑ったような声がするけれど、顔は上げなかった。視界の端で、先輩の手がこっちに向かってくるのが見える。伸びた手は俺の頭に触れる。そして、ゆっくりと髪を梳く。細くてやわらかい指が、頭を何度も行き来する。それが心地よくて目を閉じた。
「牧とかみんな引退しちゃって、寂しくなっちゃった?」
きっと先輩は、いつも通り優しい顔をしてそう言っているんだろう。
ん? と聞きながら、指は相変わらず俺の頭をなでる。
「先輩」
顔は横を向いたまま、先輩の手は俺の頭をなでたまま。
「ん?」
「隣、行ってもいい?」
先輩の指が髪から離れる。
小さく、ふぅ、とため息が漏れるのが聞こえる。
ちょっと胸が痛かった。熱が出てきたんだろうか。

「おいで」
先輩の声がして、とんとん、と椅子を叩く音がした。
「まったく、信長はあまえただね」
顔を上げると、仕方ないな、って顔をした先輩と目が合う。
俺は立ち上がって、先輩の横へ移動する。
座って先輩の顔をそっとうかがうと、不意に手が俺の額に伸びる。
額に当たる先輩の手のひらの冷たさが心地いい。
そのまま目を閉じる。
体がふうわり、と動いた気がした。
「信長、熱あるんじゃないの?」
額に当たっていた先輩の手が、目を閉じている俺の頬に触れ、それからあごに触れる。
「少し腫れてる。けっこう熱出てるんじゃない?」
目を開けると、心配そうな顔をした先輩と目が合う。
ああ、申し訳ないな、とも思うけれど、本当に熱が出てるんだろうか、ぼんやりとして、あんまり上手いこと考えが回らない。
「部活はいいから、帰りなさい」
ね、と、俺の顔から手を離す。
俺は首を振る。
「やだ」
もう一度首を振ると、ぐらりと世界が揺れる。
「首振らないの。目が回ってんじゃないの?」
机にひじをついて体を支えた俺に、心配そうな声がかぶさる。
「少し寝れば治るから」
「そんなわけないでしょ」
自分でもそれは嘘だと思った。
けれど、帰りたくなかった。
「やです」
拗ねたような自分の態度も嫌で、顔を背けると、視界がぼやけた。
熱が出てくると、涙もコントロールできないんだろうか。
「信長」
涙がぽろりとこぼれる。
「こっち向いて?」
泣いた顔を見せたくなくて、横を向いたまま無視した。
「ノブ?」
かたりと椅子が動く音がして、先輩の立ち上がる気配がする。
肩に先輩の手が触れ、俺はようやく顔を上げる。
「熱あるから、涙腺まで弱ってるんじゃないの?」
苦笑いした先輩の手が、俺の頬の涙をぬぐう。
その手を無視して、先輩の体に頭から突っ込んでみた。
先輩は一瞬びっくりしたようで体を止めたけれど、押し返すことなく、頭をなでてくれた。
先輩のセーターから、少し甘いにおいがした。
そのまま、俺も先輩も何も言わず、先輩が俺の頭をなで、俺は目を閉じてそれを受けた。
額に感じる先輩の体のぬくもりと、頭に触れる指先の冷たさが気持ちよかった。

「ねぇ、信長」
なでていた手を止め、けれど頭からは離れることなく軽く抱えるようにして、先輩は言った。
「あたしたち、先に卒業しちゃうけど、ずっと先輩だから。ちゃんと信長のこと見てるし、心配してるし、期待してるから」
またじんわりと涙が出てくる。
鼻をすする音で泣いてるのに気づいたのか、小さく笑う音が漏れる。
「まったく。本当にノブはあまえただね」
甘やかしすぎちゃったか、と笑いを含んだ声で、それでもまた手が頭を優しくなでてくれる。
「また部活見に行くし、だから、今日は帰ってちゃんと寝なさいね」
ぽんぽん、となでていた手で俺の頭を軽く叩く。俺はゆっくりと先輩から離れる。
「おでこも目も赤くなってるよ」
そう言って額に触れた指は、さっきよりも少しあったかかった。

送っていくから、とノートを閉じながら先輩が言った。
片付けるのを、立ち上がって眺める。

「先輩・・・」

ん? と机の上を片付けながら、こっちを見ないで言う先輩の後ろに立った俺は、そっと先輩を抱きしめる。

「うあ、なに?」

あまり驚いたようでもなく、そのままでいさせてくれる。

「引退やめて、また戻ってきてください」
腕に少し力を入れる。先輩の髪の毛に顔を埋める。
「俺、先輩がいなくなるのも、牧さんと一緒にバスケやれないのも、やだ」
「そっか」
「やです」
「うん、ありがとね」
俺の手に先輩の手が重なる。熱で暖かい俺の手とやっぱり冷たい先輩の手。
「ありがとね」
そう繰り返す先輩も、牧さんも、戻ってこないのは百も承知の上で。
こんな甘えたことを言ってしまうのは熱のせいだ、ということにして、このまま、もう少しこのままでいたいと思った。