「別れてください」 私は泣かないようにぐっとおなかに力を入れた。 花形は表情も変えずに、ただ、「分かった」とだけ言って、教室から出て行った。 一人になって、私はおなかに入れた力を抜いて、泣いた。 思う存分、涙が止まるまで教室で一人で泣いた。 誰も来なくて良かった、と涙が止まったときに思った。それくらい長いこと、私は一人で泣いていた。 自分から付き合ってくれ、と言ったのに、その同じ口で、「別れてください」だなんて、なんて我侭で身勝手なんだろう、そう自嘲しても、悲しいものは悲しい。 ずっと好きだった花形に、ようやく告白したのは3ヶ月前。 藤真に「脈ありだって、頑張れ」なんて応援されて、その気になって告白したら、「いいよ」ってあっさりOKもらえて、舞い上がっていた。 部活で遅くなるって言われても、待つのは苦じゃなかったし、むしろ待っている間の時間は、自分が花形の彼女だとじんわり体に染み込んでいく時間のようで、心地よくもあった。 最初のうちはぎこちなかった帰り道も、だんだんスムーズに話せるようになって、私はいろんなことを話した。 花形はもともと口数が多くなかったけれど、時々打ってくれる相槌と、時々見せてくれる笑顔で、私は天にも昇る気持ちだった。 時々一緒に食べるお昼も、喋るのは私ばかりで、お昼ごはんの量はどんどん減って(喋りすぎで花形が食べ終わってもまだ全然終わらなかったから減らした)、おかげで程よいダイエットになってたり。 けれど。 1ヶ月くらいしてから、花形に「練習終わるの、これからもっと遅くなるから待たなくていい」って言われた。 受験生でもある私は、図書館や教室で勉強をしているから、待つのなんて、そんなに苦痛じゃない。 そう言っても、花形は頑として聞き入れてくれなかった。 ためしに言われた日、練習が終わるまで待ってみたら、すごく嫌そうな顔をされた。 その顔に驚いて、次の日から待たずに帰った。 あんな顔をされるくらいなら、帰った方が良い。嫌われたくない。そう思った。 クラスの違う私たちが喋るのは、お昼のときくらい。 そのお昼の時間も、「練習をするから」って言われて、だんだん一緒に過ごす回数が減っていった。 練習が終わった後に電話をしても、花形の声はいかにも疲れた人のもので、途中で寝てしまったんじゃないかと思うほどに沈黙が続くこともあった。 嫌われたくないから、しつこくしないようにしよう、そればかり思って、電話の回数は減っていった。 私は、携帯電話のディスプレイを眺めては、ため息をつく日を過ごした。 メールも時間を見計らって送った。 返事は返ってきたけれど、それはごく短いもので。 そして、タイトルには必ず「Re:」の文字。 向こうからメールが来たことは、結局、一度もなかった。 「よく我慢したよ」 私は自分に向かって小さく慰める。 花形が私となんで付き合ったのか、それはわからないけれど。 そこにあったのは、好意ではなくて。 花形が私のことを好きだったのではなくて。 それに気付いたのは、なんとも遅い2ヶ月経ったあたり。 2ヶ月もの間舞い上がって、一人で浮かれていたのか、とおめでたい自分に呆れてしまう。 そして、結局一月言い出す勇気がなくて、3ヶ月が経ってしまった。 その間、一度も一緒に帰らなくて、一度もお昼を一緒に食べなくて、一度も電話をしなくて、一度もメールをしなかった。 その間、一度も声をかけてもらえなくて、一度も電話は鳴らなくて、一度もメールは来なかった。 時々、心配したように藤真が声をかけてきたけれど、私は笑って、「なんでもないよ」としか言わなかった。 あの時、藤真に相談していたら、何かことが変わっただろうか。 いや、きっと何も変わらなくて、結局今日を迎えるのが別の日になっていたかもしれない、ってくらいだろう。 私は窓際の壁に寄りかかって座り込んだ。 足を伸ばして、ぺたりと座ると、机の影に自分が隠れてしまう。 もうすぐ6時半。 電気を点けていない教室は暗くて、自分の上履きの白だけが妙に明るく見える。 あんまり泣いたから、疲れたよ。 小さく笑うと、私は床に手を突いて立ち上がろうとした。 そのとき、教室のドアが開いたので、私はなぜかまたしゃがみこみ、見えないように小さくなる。 隠れることもなかったのだけれど、泣いて腫れた眼を見られて詮索されるのは面倒だった。 「なんでそうなるんだよ」 怒ったような声は、藤真の声だった。 「わかんねぇよ」 返事をしているのは花形で。 「理由、言われなかったし」 「聞けよ」 「聞いても仕方ないだろ。別れたいって言うんだから」 藤真がどかどかと足音を立てながら、こちらに向かってくる。 私と同じクラスの藤真の席は、一番後ろの真ん中。 花形は入り口で藤真を待っているようだった。 私はぎゅっと膝を抱えて、自分が暗闇に溶け込んでくれるように祈る。 「だいたい、お前は冷たいんだよ」 机の中から何かを取り出している音がする。 「好きじゃなかったんなら、付き合うなよな」 そう言うと藤真は教室から出て行った。 私は膝を抱えたまま、また泣いた。 また泣いて、結局教室を出たのは7時頃だった。 下駄箱で靴を履き替えて外を見ると、もう体育館の電気も消えている。 きっと、さっき教室へ来たあと、二人で帰ったのだろう。 あの時間に練習が終わるってことか。 私は自嘲気味に笑った。 6時半なんて、たいして待ち時間はないじゃないか。 着替えを待ったって、片づけを待ったって、7時にはならないじゃないか。 そんなに私とは帰りたくなかったってことか。 ローファーの先で、小石を蹴飛ばすと、ころころと転がって、そして、何かにぶつかって止まる。 「花形・・・」 顔を上げると、花形が少し離れたところに立っていた。 私はかばんを握りなおすと、校門へ向かって歩く。校門と私の間には花形。 私は花形の横を通り抜ける。 けれど、かばんを持った腕は花形につかまれて、私は無様に踏鞴を踏む。 「なに?」 努めて冷静に。 けれど、声が震えてしまうのは隠せない。 「理由、聞かせてくれないか」 目も合わせずに花形は言う。 私はそんな花形の横顔をじっと見る。 あぁ、もしかしたらこんなにちゃんと花形を見上げるのは初めてかもしれない。 一緒に帰るときも、恥ずかしくて前を向いたままだったし、一緒にお昼を食べていても、ちゃんと目を合わせて話したりなんてしていなかったかもしれない。 この人、こんな顔だったんだなぁ、といまさらしみじみと見つめた。 「花形があたしを見てないのが分かったから」 見つめたまま私は言う。 「ごめんね。あたしから付き合ってって言ったんだから、本当は我慢しなくちゃいけないのは分かってるんだけど」 「もう無理なんだ」 もう無理なんだ。 帰りも待てない、教室でも廊下でも話せない、一緒にお昼も食べられない、電話もできない、電話も来ない、メールも来ない。 そんな状況で、どうやったら私は花形の彼女だって実感できるの? 「あたし、花形の彼女にはなれなかった」 花形は私のことを、彼女だ、って一度でも思ってくれた? 隣を歩く私を、一緒にお昼を食べる私を、電話で話す私を、メールを送る私を。 彼女だ、って、思ったことがあった? 「あたしの我侭ばっかりにつき合わせて、本当にごめんね」 誰でも良かったの? 私の告白にOKしたのはなぜ? 聞きたい事は次から次に溢れてくるのに、それは言葉にはならなくて。 けれど、涙も出てこなくて、私はどこかで安心していた。 「ごめんね」 もう一度繰り返す。 何も聞かないでいい。 答えを聞いたところで、何も変わりはしないから。 これ以上悲しい思いをするくらいなら、何も知らないままでいい。 私はつかまれていた腕を自分に引き寄せて、そして花形から離れた。 花形は結局何も言わなかった。 校門を出ると、藤真が立っていた。 「本当にいいのか? それで」 私の顔を見るなり、少し眉を下げて言う。 「仕方ないよ。あたしは花形の彼女になれなかったんだもん」 藤真が大きくため息をつく。 「は花形を彼氏だって思ってたのかよ」 私は笑った。 「思いたかったんだけど。あれだけ避けられたら、ねぇ?」 一緒に帰るのを拒否され、一緒にお昼ご飯食べるのを拒否され。メールも電話も、私からアクションを起こさなかったら何もないまま。そんなの、本当に付き合ってるっていうの? そんな人が彼氏だって思えるの? 「彼氏なんて、どうやっても思えなくなったから」 だから、別れたかったの。 「昼、本当に練習してたんだよ」 私は藤真の顔をじっと見つめた。 「帰りだって、遅くまでお前のこと残してるのは悪いし、心配だから、って」 何の話だか、わかんないよ。 私の口はそう言おうとして、またつぐむ。 「メールとかはわかんねぇけど。あいつ、俺にだってあんましメールしてこないよ」 いまさらそんな話をするのは、ずるい。 私は唇をかみ締める。 「あいつ、のこと嫌いじゃないよ」 嫌いじゃない。 私は唇が少し上がるのを感じる。 「うん。嫌われてるとは思ってない」 嫌いだったら、OKしなかった、そう思いたい。 「けど、好かれてたとも思えない」 後ろで、ざり、と音がする。 きっと花形が近づいてきたんだろう。 どんどん音が近づいてくる。 「こればっかりは、あたしが一生懸命になっても、どうしょもないもん」 「けど・・・」 「きっと、花形はあたしのメアドも登録してないよ?」 「んなこと・・・」 「だって、あたし、花形から返信以外のメールもらったこと、ないもん」 「・・・」 「電話ももらったことない」 「・・・」 「話しかけるのもあたしだし、廊下で声かけるのもあたしだったんだよ?」 私は振り返る。 振り返ると、花形は思ったよりも傍にいて。 なんで花形がそんな顔するの?と思うほど、つらそうな顔をして立っていた。 「そんなの・・・」 もう一人で空回りするのは疲れちゃったんだ。 「彼女じゃなくても良いでしょ?」 彼女だと思うから、自分ばかりから行動を起こすことに疑問を感じてしまう。不安を感じてしまう。片思いなら、私だけが彼を好きならば、メールが来なくても電話が来なくても一緒に帰れなくても廊下で話せなくても、何も不安じゃない。 「理由はそういうことです」 じゃあね、と藤真に言うと、藤真は怒ったような顔をして私と花形を交互に見ていた。花形の顔は見られなかった。 あれだけ泣いたのに、どこから出てくるんだろうと思うほど、私はまた泣いた。 彼が私を好きじゃなくても、私はこんなに彼が好きだ。 それなら、すがっていればよかったんだろうか。彼女というポジションに。 もっと甘えればよかったんだろうか、好きだと言って、と。 けれど、何もかも、全ては終わったことなのだ。もしかしたら後ろから足音が聞こえるかもしれない、と期待する自分に言い聞かせた。 |