明かりを消した部屋のベッドの中で、携帯のディスプレイだけが光っている。
さっきから、何度もディスプレイが暗闇に戻り、そのたびにボタンを押して、また光らせている。
発信ボタンを押すだけなのに、そのボタンが押せず、またため息をつく。

簡単なことだ。
ただ、発信ボタンを押すだけでいい。
そうすれば、相手に繋がれる。
声が聴きたい。
そう思うのに、そのボタンを押してすぐに、かかりそうになる番号を消すために、ボタンを押す。
ここ一月、毎日のようにそれを繰り返した。
一月前までは、同じ名前が着信履歴に連なっていた。それが当たり前のように、過ごしていた。
疲れていても、何を話せば良いのか分からなくて黙り込んでいても、こちらを気遣いつつ、穏やかに耳元に語りかける声を聴いていた。
あの声が聴きたい。
けれど、今日もまた、ボタンを押して番号を消す。
リダイヤルには、同じ番号が、かからないまま連なっている。
明日は、明日こそはかけよう。
それだけ決めて、布団を引き上げた。




けれど、翌日、練習前に別れ話を切り出された。
一月電話が来なかったのは、こういうことだったのか、冷静に判断している自分がいた。
理由なんて聞いても仕方がない。
ダメなものはダメなのだろう。「わかった」とだけ答え、教室を出た。
あの電話を鳴らしていたら、この結末は変わったのだろうか、と、簡単なことすら出来なかった自分を悔いた。

「言わなきゃわかんねーこともあるんだよ」
帰り道、どかりと俺に蹴りを入れて、藤真はぽつりと呟いた。
「別に、お前らが付き合ってるのなんか、みんな分かってんだから、廊下で話してたって当たり前だろ」
「...まあ、な」
「高野たちがお前のことからかうのだって、羨ましいからだし、そんなんで、帰り待つなとか、お前、ほんとアホか」
返す言葉もなくて、ただ空を見上げた。
今夜は星が綺麗だ。
一緒に帰ったとき、が空を見上げて、星を見るのが好きだ、と言っていたのを思い出した。
星の名前は全然分からないのだ、というのために、今の季節、どんな星が見えるのか、調べて、次の帰り道に教えた。素直に、すごい、と褒めてくれるのが嬉しくて、手放しで褒める彼女が愛しくて、初めて彼女のことが好きだと思った。
向こうから告白してきて、藤真も勧めるし、それなら、と、軽い気持ちで付き合い始めた。だから、最初は特別な想いは抱いていなかった。「彼女」という存在に興味があった、その程度だった。
けれど、星空を二人で見上げた日から、一足飛びに気持ちが動いた。
目が合うと、照れたように笑うその顔も、夜電話で話すときの、のんびりとした柔らかい声も、全てが自分に向けられているのかと思うと、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちになった。
藤真の言うように、と付き合い始めたという話なんて、あっという間に周知の事実になっていたのだから、何を言われても、軽く流せばよかったのだ、と、今なら思える。
それが出来なくて、彼女を傷つけてしまったのならば、別れた方がいい。
「けど」
黙りこくって並んで歩いていた藤真が、また、ぽつりと言った。
、花形のこと、好きだぜ」
瞼を腫らして、「花形の彼女になれなかった」と言ったの顔が浮かんだ。
「花形もだろ?」
俺はただ、小さく笑うしかできなかった。



付き合い始めた、という噂が立つのは早かったけれど、別れた、という話が広まるのはもう少し後なのだろうか。別れてから1週間経ったけれど、まだ誰かにその話題を振られたことがなかった。
3ヶ月が長いのか、短いのか、そのあたりはよく分からない。
そのうちの最後の一ヶ月はほとんど話してもいなかったのだから、傍から見れば、その段階でもう別れたと思っていたのかもしれない。
廊下で時々、とすれ違う。
お互い、何もなかったかのように目も合わせずに、すれ違う。
こうして時間が経てば、すれ違う瞬間に感じる痛みも薄れていくだろうか。


「なぁ、俺のケータイ知らない?」
放課後、職員室から教室に戻ってきて、かばんを開けると、入れてあるはずの携帯電話が見つからなかった。
「さっき藤真が来て、いじってた」
一志が同情するような顔をした。
「気付いたなら止めてくれよ。あいつ、何するか分かんないだろ」
ため息をついて、藤真の教室へ向かう。
前はメモリを使い切るまで、高野や永野の写真を撮りまくっていた。しかもアップで。消すのが大変だったことを思い出し、またため息が出る。
「藤真、いる?」
入り口にいるやつに声をかけると、屋上へ行ったらしい、と教室の中の誰かが教えてくれた。
今度は何を考えているんだ、さすがに壊すことはないだろうけれど。
屋上のドアを開けると、藤真の少し茶色がかった髪が見えた。
「藤真。人のケータイで遊ぶなよ」
一歩踏み出したとき、藤真の向かい、こちらから見ると藤真の後ろに、誰かが立っているのが分かった。
「あ」
思わず、ノブを握り締めて足を止めた。
勘弁してくれよ。
にやっと笑って振り返った藤真は、空の両手をぶらりと上に上げた。じゃあ俺の携帯電話は、と言えば、藤真の向かいで本当に困った顔をしているの手の中だった。
「花形」
にやりと笑ったそのままの顔で、
「お前、このリダイヤル、なに?」
の手から携帯を取り上げると、開いた状態のまま、ストラップをつまんでぶらぶらと揺らした。
言われた瞬間、されて困るのは、写真を撮られることでも、メールを見られることでもなく、発信履歴を見られることだった、と気付いた。
「な、それは、」
「おんなじ名前が並んでんのな」
顔がかっと熱くなるのが分かる。ノブから手を離すと、ストライドを大きくして藤真に近寄る。ぶらりとぶら下げられている携帯電話に手を伸ばすと、藤真はストラップを揺らして俺の手から遠ざけると、そのまま彼女の手に向けて放った。
が、少し慌ててキャッチする。
「なんつー顔してんだよ」
ぼす、と横っ腹にパンチを食らう。
「花形、お前、このリダイヤルの意味、ちゃんと言うまで、部活来なくていいから」
藤真が階段を降りる音が、異常に耳に響いた。


「これ」
足音が聞こえなくなるまで、閉じたドアの向こうを見るように、体をドアの方へ向けていた。けれど、後ろにがいる。背中が気配を感じて、緊張してくるのが分かる。
声に振り返ると、が携帯電話をこちらに差し出していた。
「あぁ、ありがとう」
手に触れないように、携帯を受け取る。開いたままの画面を見れば、それはリダイヤルの一覧で、一番最近は藤真に部活の連絡でかけた一本で、そのまま5つくらい上がっていけば、そこから先は、目の前の彼女の名前がいくつも並んでいる。
きっとまだ顔は赤いままだ。
の顔をそっと伺うと、相変わらず困ったような顔をして、うつむいている。そりゃそうだろう。リダイヤルなんて見せられたって、の携帯は鳴っていないのだ。しかももう、別れた相手なのだから、困る以外、ないだろう。
「名前、」
小さな声が聞こえた。
「え?」
「名前、登録しててくれたんだね」
「え、あ、うん」
「ありがとう」
顔を上げたが、少し笑った。
「ごめんね、携帯、勝手に見ちゃって」
「いや、それは、藤真が勝手にしたことだから」
携帯をポケットに仕舞った。
「それじゃ」
軽く頭を下げるようにして、が横をすり抜けた。
思わず、その手を掴む。
本当は、あの日、ちゃんと話すべきだったのに。
もっと前に、電話を鳴らせば良かったと、何度も後悔した。
言わなきゃいけないことが、ある。
「理由は、いいよ。言わなくても」
けれど、は笑ってそう言った。
「もう、いいよ」
笑っているけれど、泣きそうに見えるのはなんでだろう。

のことが、好きなんだ」

最初に出てきたのは、予定外の言葉。リダイヤルの言い訳よりも、鳴らせなかった理由よりも、今、手を掴んだ訳よりも、ずっと伝えなきゃいけなかったのは、きっとこれだったんだろう。
びっくりしたような顔で、が俺を見上げている。
「本当は、毎晩、電話しようって思ってて」
自分で言っていて、苦笑いが浮かぶ。
「だけど、ずっとかけられなくて。なんか、何話していいのか、わからなくて。一緒に帰らなかったのは、周りのやつらにいろいろ言われてて、それで、ちょっと恥ずかしくて、だから、一緒に帰りたくなかったわけじゃなくて」
出てくるのは、情けない言い訳ばかりだ。
「メールも、なに書いていいか、わかんなくて。けど、からメールもらうの、本当に嬉しかった」
自分の手に力が入っているのに気付いて、強く握っていた手を、慌てて離す。の手が、ゆっくりと体の横へ戻っていく。
「ごめんな、いまさらこんなこと言って」
は視線を逸らして下を向くと、小さく首を振った。
「ほんと、いまさらだよな」
口から零れるのは、自嘲めいた響きの言葉だけ。
「ごめん」
繰り返した。は、また小さく首を振る。

すぅ、と息を吸った。
ふぅ、と吐き出す。

下を向いたまま、ぎゅっとスカートを握り締めて、何かに耐えているように見えるを呼ぶ。
「俺は、のことが好きだよ」
スカートが、ぎゅっとしわを作った。
肩が震えているのに気付いた。
一歩、距離を縮める。
ぽたぽたと、涙が零れているのが分かった。
?」
思わず手を伸ばした。肩に触れると、びくり、と揺れて、大粒の涙を零しながら、が俺の顔を見た。
「なんで?」
掠れて、震える声で、
「なんで、いまさら、そんなこと、言うの?」
言うと、両手でごしごしと目元をこする。
こすっても、涙は零れてきて、両手の間からしゃくりあげる声が漏れてくる。
「もっと、早く、言ってくれれば、」
最後の方は言葉になっていなくて、肩に置いたままの右手をそっと背中に回した。
「ほんと、そうだよな」
引き寄せれば、初めて触れる体は、思っていた以上に細くて、小さかった。
「ごめん」
「ごめんは、もう、いらない」
「ごめ...、あ、うん」
両腕を背中に回した。
一瞬、の両腕がぐっと俺の胸を押し返そうとして、でも、すぐに力が抜けて、額がシャツ越しに胸に当たる。
すぅ、と息を吸う。
ふぅ、と吐き出す。

涙は止まったようで、小さく鼻をすする音だけ聞こえる。
「俺と付き合って」
細い肩が、びくり、と動いた。
のこと、すごく傷つけて、嫌な想いさせて、ほんとにごめん」
が小さく首を振る。
「不安にさせて、ほんとにごめんな」
シャツの背中が、ぎゅっと握られた。
「もう、あんな想いは絶対にさせないから。だから、俺と付き合ってください」
シャツを握っていた手が離れる。
すっと不安が胸を過ぎる。
けれど、離れてた手は、今度はぐっと俺の体を抱きしめた。
「もう」
またしゃくりあげ始めたの声が聞こえてくる。
「うん」
「もう、あんな、思い、したくない」
「うん」
の背中に回していた手に力を少し入れて、しっかり抱きしめる。
「もう、絶対にさせないから」
「ほんと?」
「うん。約束する」
細い体を抱きしめながら、そういえば、初めてだった、と気付いた。こんなふうに、触れ合うのは、初めてだ。瞬間緊張が走ったけれど、なんとなく、こうしているのが極自然なことのようにも思えた。
「花形」
小さな声で呼ばれる。久しぶりに自分を呼ぶ声に、涙が出そうになった。
「うん」
「好き」
「うん」
ばかみたいに頷くことしか出来ない。から、ふわりと甘く優しい香りがする。
「あたし、花形の、彼女になりたい」
腕の中で、の頭が動く。背中にまわっていた手の力が抜けた。少し腕の力を緩めて下を見れば、俺を見ていると目が合う。
「俺も」
片手を背中から離して、こちらを見上げる頬に添える。そっと涙を拭った。
の彼氏になりたい」
俺の手の中で、が笑った。
久しぶりに見る顔に、つられて頬が緩んだ。
それから、ゆっくり、ゆっくり、に近づく。
初めて触れた唇は、暖かくて、とても柔らかかった。

「今日からまた」
まぶたまでほんのり赤く染まったが、伏せていた顔を上げる。涙の後を消したくて、両手で小さな顔を挟み込んだ。
「一緒に帰ろう」
手の中で、が頷いた。
その笑顔に、また唇を重ねた。

一緒に帰って、そして、今日の夜は俺がの電話を鳴らそう。