「ねぇ、お願いがあるんだけど」


珍しく二人きりになった帰り道、が言いづらそうに口にしたお願いのおかげで、次の日の朝、いつもよりも30分早く家を出た。「みんなが来る前に」なんて言うから、休みの日の朝だって言うのに、まぁ練習はあるけれど、いつもと同じ時間に電車に揺られている。
肩から提げたバッグに手をやる。
これで「お願い」が叶うなら、それはお安い御用だ。



着替えて体育館に行くと、はもう体育館の掃除を終えて、シュート練習をしているところだった。
体育の時間でしかバスケをやっていないわりに、シュートのフォームが綺麗なのは、毎日毎日練習している部員を見ているからか。
少し開いていたドアから、シュート練習をしているを眺めていたら、気配を感じたのか、くるりと振り返って、「おはよう」と笑った。応えるように軽く笑って「おう」と片手を上げる。
「ねぇねぇ、シュート上手くなったと思わない?」
「そういや、こないだまで届かなかったよな」
「練習したもん。神と一緒に残ってシュート練習した!」
「ほほぅ」
通りでシュートが神に似てるわけだ。口には出さなかったけれど、のシュートフォームは、神のそれに良く似ている。背も低いし、腕の長さも神と比べたら本当に短いけれど、その細い腕から投げられるボールの軌跡は、ゴールへ向かってふわりと弧を描く。その瞬間、すらりと腕が伸びていく感じすらする。
「今年の球技大会はバスケにしよっかなぁ」
拾い上げたボールをかごに戻しながら、次の季節を想像している。

「持って来たぞ」
なんとなく言いあぐねているようなの頭に、ばさりと約束のものをかぶせる。
「うわぃ」
抱えるようにして握り締め、満面の笑みを浮かべる。
「どっちがいいのか分からなかったから、両方持ってきた」
もう片方を広げて、「どっちにする?」と聞くと、「白!」と自分の握り締めたのをこっちに渡して、広げていた白い方を抱えて、また嬉しそうな顔をした。

「こんなの、そんなに着たかったか?」
いそいそとジャージを脱いでノースリーブのTシャツ姿になると、は白のユニフォームを着込む。いつもは自分が着ているユニフォームも、が着ると肩が落ちてしまうほどに大きい。なんだか、妙な違和感。
「うん。だって、あたし、一生着られないもん」
一生とはおおげさな、そう思ったけれど、良く考えてみなくても、男子バスケ部のユニフォームなんて、着る機会はそりゃないだろう。だからといって、着たいものでもなかろうに。片手に握り締めた紫のユニフォームを見つめる。
「ね、ね、どう?どう?」
「どうって言われても」
あまりにも大きすぎるユニフォームは、似合うかどうか、それ以前の問題だと思う。すそを引っ張って、ユニフォーム姿を見せてくるは、相変わらず幸せそうな顔をしている。
「あ、ね、カメラ持ってきた!写真撮って!」
あんなにユニフォームって大きかったか? 壁際に置いたバッグへ走る後姿を見る。細い肩、細い腕。
ジャージに隠されていたのは、あんなに小さくて、細い両腕。
戻ってきたの片手にはボールが、もう片手にはデジカメが握られていて、電源を入れると、「はい」と渡してくる。
「いぇーい」
のんきにピースサインをしてくるに、カメラを向けて、一枚撮る。
「ボール持ってるのも!」
足元に置いていたボールを拾い上げて、にこにこした顔を向けてくる。もう一枚、モニタを見ながらシャッターを押す。さらにもう一枚、少しズームで近づけて、嬉しそうな顔を撮る。あぁ、この顔、我ながらすごくよく撮れていると思う。ユニフォームはあまり写っていないけれど。
「どう?どう?」
一枚前の画像をモニターを向けて見せてやると、は嬉しそうな顔でそれを確かめた。
「すごい嬉しい」
すそをぐっと握り締めて、なぜか少し泣きそうな顔をして笑う。
「そうか」
「うん」
「そりゃ、良かった」
「うん。ありがとね」
の視線が少し下がって、着なかったもう一枚のユニフォームに注がれる。
「こっちも着るか?」
少し考えた顔をした後、小さく首を振ると、
「ねぇ、それ、牧が着て」
「俺が? そんなの、見慣れてるだろ」
「見慣れてるけど、一緒に写真撮ったこと、ないもん」
それに、同じユニフォーム着て撮ることなんてないでしょ? さっきの泣きそうな顔はどこへ行ったやら、今度は少しいたずらっこのような顔で笑う。


「タイマーで撮ろうね」
椅子の上に救急箱やらなにやらを重ねて、高さを調整しながらが少し大きな声で言う。
久しぶりに素肌に重ねるユニフォームの感触は、こういうときでも気持ちを引き締まらせる。下はジャージのままなのに。この感触、は分かるだろうか。
「牧、そこでストップ!」
デジカメを覗き込んで、間合いを計っていたの声が飛んでくる。
そのままの位置で立っていると、タイマーをかけたが、ばたばたと走ってくる。自分には程よいサイズのユニフォームが、には大きい。そんな分かりきったことが、なんだか新鮮なほど、繰り返し繰り返し、心の中に浮かんでくる。
「あと5秒!」
隣に立ったはカメラに向かって向きを整えると、手をそっと俺の着ている紫のユニフォームのすそに伸ばした。きゅっと、すそを握り締め、顔はカメラを見ている。気付かないわけはないけれど、あえて知らない振りをして、カメラを見た。小さくシャッターの下りる音がする。

「どうした?」
シャッターは下りたのに、まだユニフォームのすそを握り締めたままのに声をかける。
照れたような顔が上を向いて、目が合う。
「なんか、いろいろ思い出しちゃった」
ゆっくりと手が離れる。
「牧がこのユニフォームもらったときの事とか、最初の試合とか、こないだのインターハイとか。なんか、いろいろ。これ着て、牧は試合に出てたんだなぁ、って」
自分の着ている白のユニフォームと紫のユニフォームを交互に眺め、自分の胸元の数字に触れる。
「忘れられないなぁって」
つられて自分の胸元の数字を見る。
1年しか着ていないのに、慣れ親しんだ数字。
「牧がこれ着て、試合に出て。あたしはそれを応援して。っていうのが、なんか、もう終わっちゃうのかと思ったら、どうしても、一回着てみたくなったの」
「そうか」
「うん。憧れだったから」
「憧れ?」
「うん。海南のユニフォームも、4番って背番号も」
それと、と、人差し指をゆっくりと俺の胸元の数字に当ててくると、
「牧も」
そう言って、ふわり、と笑った。
「牧が海南の4番をつけてバスケやってるの、見られて良かった」
へへ、と笑うの頭に、手を伸ばして、くしゃり、と髪を撫でる。
「なんだよ、急に」
「照れた?」
「いや、そうでもない」
「牧だなぁ」
「なにがだよ」
「落ち着きっぷりが。牧らしいなぁ、って」
頭に置いたままの手に、の小さな手が重なり、下に降りる。
「けど、大学行っても、また見せてね。牧の4番」
「そうだな、見せてやるよ」
だから、ちゃんと見てろよ、言おうと思ったけれど、言葉にはしなかった。見せてね、の裏は、見ているから、だろうから。


「大学のユニフォームって、どんなのだっけ?」
もうそろそろ他の部員も来る頃だから、と、はユニフォームを脱いで、ジャージを羽織った。細い肩も、二の腕も、袖の中に隠れる。綺麗に畳まれて返された白のユニフォームは、のつけている香水の匂いが移っていた。白と紫のユニフォームを重ねてバッグに戻す。
「覚えてないな。色は大差ないと思うが」
「だよね。学校のカラーだもんね」
「けど、また着せてやるよ、4番」
カメラをバッグに仕舞っていたが振り返る。
「うん」
「今度は、両方着させてやるよ」
「うん。楽しみにしてる」
大学でも4番を背負って、コートに立つ。当たり前のようにそう思った。この背番号は、また必ずつける。
そのユニフォームをもらうときも、最初の試合も、他のどの大会も、今、目の前で幸せそうに笑うに見せたい。
これも目標っていうのか、そんなことがちらりと心を過ぎって、思わず笑いがこぼれた。