日本史の補習なんて、出ても出なくても良かったのに、私は夏休み真っ只中、わざわざ学校へ来て補習を受けている。 補習と言っても、先生は課題のプリントを出すと、そそくさとクーラーの効いた職員室へ戻って行ってしまい、教室に残っているのは、私と、なぜかもう一人。 「仙道、部活行かなくていいの?」 少しでも風が吹いたら恩恵に与れるように、二人しかいない教室の窓を全部開ける。 ついでに廊下の窓も開けて、教室のドアも開けて、全て全開、フルオープン。けれど、風は吹くことなく、私は席に戻ってかばんから下敷きを出す。 ぱたぱたと仰ぎながら、離れた席に座る仙道を見ると、仙道は机の上に足を乗せて、ジャンプを読んでいた。 おかげで、あぁ今日は月曜か、なんてことに気付いたけれど、なんでこの人ここにいるんだろう。 仙道は返事もくれないで、ぼんやりとジャンプを読んでいる。 私は答えを待つのを止めて、プリントと向き合った。 さっさと終わらせて、早いとこ帰ろう。 教室には私のシャーペンのカシカシと文字を書く音と、仙道のジャンプをめくる音だけが響いていて、外からはせみの声と、時折、野球部らしい声が聞こえる。 課題のプリントは順調に進んで、記入する欄もあと3つ。 帰りにどこかに寄って、アイスでも食べたいなぁ、とか思いながら教科書をめくる。 「なぁ」 気付けば教室に響いていたのは私のシャーペンを動かす音だけで、仙道はジャンプを読み終わったようだった。 「なに?」 最後の設問が、意外に面倒くさい。 なぜそんな行動を取ったのか、なんてこと、当事者じゃないんだから分かるわけがない。 そんなことを考えていたので、返事もぶっきらぼうで、口にした後、すぐに悪かったかな、と思う。けれど、言われた本人はあまり気にしていないようで、 「なんでこんな暑いのに、補習とか来てんの?」 って日本史できなかったっけ? と、ジャンプを隣の机に放り投げる。 「成績は問題ないけど、40日も休みがあると、することない日もあるしさ。まぁ、暇つぶし」 私は最後の設問に答えを埋め込みながら答える。 「仙道は?」 「ん?」 「なんで補習来たの?」 最後の答えを書き終え、私は立ち上がった。 これを提出して、帰り道にあるコンビニでアイスを買おう。 「あ、終わったの?」 仙道は私の顔を見て、にこりと笑うと、 「じゃあ、見せて」 さらりと言う。 「なにしに来たの?」 私の口調が冷たいのは仕方ないと思う。 希望者のみが参加する2年の補習。面倒なら出なければいい。それだけのことだ。 だから、 「自分でやる気ないなら、出なければ良いのに」 「日本史の成績悪いからさ、補習出ておけば好印象でしょ?」 「自力でやればさらに好印象じゃないの?」 ずっとジャンプ読んでただけで、人がプリントを終わらせるまで待って、それを写して成績アップですか。 あんまり何事もやる気がなさそうな感じだと思っていたのに、そういうとこはちゃっかりしてるんだなぁ。 私は変なところに感心してしまう。 「自力でできればね」 「頑張って」 私は机の上に出ていた教科書と資料集、ペンケースをかばんにしまいこんで、肩にかける。 「見せてくれないの?」 机にひじをついてあごを支えた状態で、私を見る。 余裕ありげな表情。 「やってみて出来ないんなら手伝うけど、やりもしないで最初からあてにされるのは気分悪い」 にこりと笑ってやろうかと思ったけれど、私にはそんな余裕はなくて、棒読みの台詞のように言い切ると、 「やってみたけど、無理なんだよね。俺、日本史嫌いだし」 ジャンプ読んでただけじゃんか、と言ってやるべきだったんだろうか。 「教科書なら貸してあげるよ。終わったら、机の中に入れておいて」 しまった教科書をまた取り出して、仙道の机に載せる。 「じゃね。部活、頑張ってね」 「って」 ドアのところで振り返ると、相変わらずひじをついたままの姿勢で、仙道は私を見て笑った。 少し嫌味を感じるくらい、にこやかに。にやりと。 「冷たいよね」 「そうだね」 自分でもそう思う。 プリントなんて、見せてあげればいいんだ。 たいしたことじゃない。 暇つぶして来ているような補習なら、暇つぶしでやったような課題なら、見せてあげればいいんだ。 つまんない意地を張っただけだ。 仙道が、あんまり余裕ありげに笑うから。 私の質問なんか聞いてないくせに、自分の言いたいことだけを言って、それに私が反応してしまうのが悔しいから。 つまんない意地を張っただけだ。 「けど、そういうとこも好きだけど」 にやりと笑ったまま、私から視線を逸らさずに、さらりと、言う。 「それ、プリント見せてほしいから?」 きっと私の顔は真っ赤だ。 仙道のことだから、あんなににやりと笑ったまま言うんだから、本気なはずないんだ。 特別な一言じゃない。 好きの種類はいろいろで、仙道が言うのは自分に対して冷たい女の子全般を指すのであって、私を指してるわけじゃない。 けれど、免疫のない私には、ちょっとそれはきっつい一言だ。 顔だって赤くなるし、足元は震えている気すらする。 「、顔赤いよ?」 ああ、やっぱりそうじゃないか。 ぐっと唇をかみ締め、私はひじをついたままニヤニヤと笑ってこっちを見ている仙道のところまで戻ると、 「はい。写したら一緒に先生に出しておいて」 プリントを仙道のひじの間にねじ込むようにして置き、きびすを返して教室を出た。 泣きそうだった。 からかわれただけだ。 プリントを見せない私のことを、からかったのだ、仙道は。 分かっていても、それに反応してしまう自分が悔しいのと、ニヤニヤ笑う仙道の顔がむかつくのと、本気にしてしまった自分が悲しいのと、いろんな思いがぐちゃぐちゃに交差して交じり合う。 仙道がバスケ部のエースで、モテることなんて百も承知だ。 そんな人が、自分のことを「好きだ」なんて思うわけないじゃないか。 本気にするなんて、私がバカだ。 たいして仲良くもないくせに、片思いをしている自分がバカだ。 一瞬でも嬉しく思った自分がバカだ。 「?」 下駄箱から取り出したローファーを履いていると、頭上から声がする。 「植草...」 顔を上げると、Tシャツにハーフパンツの植草が、タオルを片手に目の前に立っていた。 「なんかあったの?」 「え?」 「いや、泣きそうな顔してるから」 小首をかしげるようにして心配そうな顔をする植草に、私は笑って「なんでもないよ」と答えようと思った。 「ていうか、泣いてるから」 植草は私の前まで近づいてくると、持っていたタオルでそっと私の頬に触れた。 私は植草が触れた頬の反対側に手をやる。 ぽろぽろと涙がこぼれてくる。 「なんか、あった?」 私は首を振る。 「は、すぐ意地張るから」 植草の声が優しく響く。 私の涙は、どんどん植草のタオルに吸い込まれていく。 植草の優しい声と、次々こぼれる涙で、さっきまでのとげとげとしていた気持ちが和らぐ。 「昔からそうだもんなぁ」 タオルを私の顔に当てたまま、空いた手で髪をなでてくれる。 「中学ん時も、そうだったもんな。意地張って、あとでよく泣いてたもんなぁ」 「...いっつもそういうタイミングで植草が来るんだよ」 「そうだな。よく見たもんな」 私はタオルを自分でつかんで、涙を拭く。 「ありがと」 「どういたしまして」 「あたし、植草のこと好きになればいいのになあ」 タオルをつかんだまま笑うと、植草も笑う。 「そんな気ないくせに」 「けど、植草のことは好きだよ」 「恋愛感情抜きならでしょ? 俺ものこと好きだよ、おんなじ意味で」 私の頭を、なでていた手でポンポンと叩くと、植草はタオルを受け取る。 「うわ。お前、よく泣いたなぁ」 「ごめんね」 「まぁいいや。汗も涙も成分は一緒だ」 ははは、と笑う植草に釣られて、私も声を出して笑う。 仙道が言った「好き」にも、このくらいの軽さで交わせれば良かった。 ありがとうの一言を返せるくらい、軽く答えればよかった。 「帰るの?」 一緒に玄関を出て、私は空を見上げる。 やっぱり良い天気だ。 泣いたまぶたには、少し太陽の光が痛いけれど。 「うん」 「補習でも受けてたの?」 「あ〜、うん。日本史」 「日本史?」 植草は少し考える顔をして、そして私の顔を見る。 「仙道もいた?」 私は眉を寄せて笑う。 「ジャンプ読んでただけだけどね」 「はは。あいつらしい。けど、そっか。そうかぁ」 「が泣いたのは、仙道のせいか」 にっこり笑うと、植草は私の後ろに向かって 「お前、泣かせてそのままかよ。それは酷いんじゃないの?」 と言った。 あわてて振り返ると、下駄箱のところに仙道が本を片手に持って立っていた。 「俺は泣かせるつもりはなかったんだけど」 眉を寄せて、困ったような顔をして仙道は笑った。 「仙道のせいじゃないよ、植草。泣いたのは違うよ」 植草のTシャツのすそをつかむ。 泣いたのは、あんな軽い台詞を本気にして一喜一憂してしまった自分が情けなかったから。 仙道は、他の子に言うのと同じように言っただけだ。 たまたま、運悪くそれを言った相手が、仙道のことを好きだったから、自分に都合よく勘違いしてショックを受けた。 それだけだ。 だから、 「仙道のせいじゃないよ」 私は笑った。 「あのね、俺との付き合い、何年か分かってる?」 「5年?」 「そう。だから、が嘘ついてるときの顔とか、俺、わかるんだよね」 植草はTシャツをつかんでいた私の手をつかんで離させる。 「それと、仙道とも部活でも一緒だから、普通の2年よりも濃い付き合いなわけだよ」 「うん」 「だから、仙道が普通泣かせた女の子をここまで追いかけてこないことも知ってるのね」 「うん?」 「植草、よけいなこと言うなよ」 気付いたら仙道が近くまで来ていた。 持っていたのは私の教科書。 それを私に「ありがとう」と差し出す。 私は植草につかまれていない方の手で教科書を受け取る。 「わざわざ良かったのに。机の中で」 「机の中じゃ、意味ないでしょ?」 え、と仙道の顔を見上げると、仙道はやっぱりさっきと同じような顔で笑っていた。 植草は、私の手をするりと離すと、 「俺、先に部活行ってるわ」 手を軽くあげて玄関を出て行ってしまった。 二人きりになり、沈黙が続く。 仙道は近くの下駄箱に寄りかかって、私を見ている。 私は自分のローファーを見つめている。 胸が苦しい。 居心地が悪い。 逃げよう。 私は受け取った教科書をかばんに入れて、丁寧にファスナーを閉める。 「それじゃ...」 仙道の顔を見ないように、下を向いたままきびすを返す。 「ねぇ」 「俺がなんで補習受けたか知ってる?」 振り返ると、全然笑ってない仙道がいた。 「日本史...成績悪いからって...」 仙道は眉を寄せて笑った。 「俺、日本史の成績はいいよ」 「だ...って、さっき...」 さっき、日本史の成績悪いから補習受けて好印象を、って言ってたのに。 「が日本史の補習受けたからだよ」 私は仙道の顔を思わず見つめる。 「意味わかんない」 「夏休み前に、、日本史の補習申し込みに行ったでしょ?」 私は小さく頷く。 「お前一人だぞ〜、ほんとに受けるのか?」なんて先生に驚かれた。「暇だから」って笑って申し込み用紙に記入した。 だから、今日の今日まで一人で受けると思っていたのだ。 「あの時、俺も職員室いたんだよね」 仙道は相変わらず困ったような顔をして笑っている。 この人、困ってても、からかってても、なんでも、デフォルトで笑ってるのかなぁ、と場違いなことを考えてしまう。 「が一人だって聞いたから、俺も申し込んだの」 寄りかかっていた体を起こして、私の前まで歩いてくる。 あまりにも近くて、私は顔は見ずに、仙道のベルト辺りを見つめる。 「一緒に受けたかったんだよ」 わかんない?と仙道が少し笑ったような声で言う。 「と二人っきりになれると思ったから、来たんだけど。、怒るし」 「な、それは...」 ばっと顔を上げると、仙道の手が私の顔に伸びる。 「しかも、その後泣くし」 他の男の前で、そう言いながら仙道は、もう消えているはずの私の涙の跡を親指でなぞる。 私はまた顔が熱くなるのを感じる。 「ちょ。っと」 頬に触れたままの仙道の手を離そうとその手に自分の手を重ねると、逆に握り返される。 「植草は良くて、俺はダメ?」 「そ、うじゃなくて! 仙道はこういうの、普通かもしれないけど、あたし、ダメだから、だから...」 「普通なわけないでしょ」 私の手をつかんだまましゃがみこむと、下から私の顔を見上げる。 眉を寄せて、困ったように。 少し頬を赤くして。 「に冷たくされても、本気で好きなんだけど」 だからすごい緊張してるよ、仙道はそう言ってやっぱり笑った。 「ずっとジャンプ読んでたくせに」 「うん」 「話しかけても、一度もちゃんと返事してくれないし」 「うん」 「仙道、もてるし」 「うん?」 「あたしなんか対象外だと思ってたし」 「え?」 「だから、どうしていいのか、わかんない」 つながれた手を振りほどいて、私はしゃがみこんで顔を覆った。 あぁ、本当にどうしていいのかわからない。 「ねぇ」 仙道の声がすぐ傍で聞こえる。 「、俺のこと、好き?」 「...」 頷くべきか、このまま聞こえない振りをしようか。顔が一気に熱くなる。 「ねぇ、好きなら頷いてよ。ダメなら、首振って。それだけで良いから」 私が小さく頷くと、体がぐいっと引っ張られて、仙道の胸にぶつかった。 「補習出てよかった〜」 さっきよりもずっと傍で聞こえるその声に、私はようやく笑った。 |