ちょっとだけのつもりが、本気になって参加してしまった午前の部活の後、みんなと昼飯を食って、午後練習はさすがにパスして一人で帰ろうとしていたら、甘いにおいがした。
ちょうど通りかかったのは調理室の前。
誰かがなにか作ってるのか、と開いていた窓からそっと覗いてみた。
「なにやってんだ」
エプロンをした知ってる顔が一人で何か本を読んでいたから、声をかける。
「あ、武藤。部活?」
「おう。もう帰るけどな。お前は? なにやってんの」
「試作品作り。そろそろうちの部、稼ぎ時だから」
「あー、あれね」
窓枠に顎を乗せて、俺はため息ともつかない息を漏らした。
エプロンをしているのはで、は料理部で、料理部はバレンタインの前になると、チョコレートの講習会、とやらを始める。
それとはまた別に、いろんな部のマネージャーたちの代わりに、金をもらって部員全員分のバレンタインのお菓子を作る、とか言うのもやっている。
市販のチョコを買うよりも安上がりだから、全員分用意しなくちゃならないマネージャーからも好評らしい。俺ももらったことがあるけれど、腕自慢が揃っている料理部が作っているからか、味は普通に旨いと思う。
「お前、引退したんじゃないの?」
「受験も終わって、けっこうヒマなんだよね。武藤もヒマなんでしょ?」
「まあな」
「ヒマなら、ちょっと寄ってってよ。お茶くらい出すし」
目の前に立ったが、俺のコートの袖を軽く引っ張る。
自体から甘い匂いがしてくる気がする。
「じゃあ、上履きはいてくるわ。これ、預かってて」
バッシュやジャージ、Tシャツが入っているバッグをに押し付けるようにして渡して、玄関へ向かう。
向かいながら、そっとコートの袖に触れる。
の小さな手を思い出して、ちょっと笑った。



とは高校最後の席替えで、初めて隣の席になった。
といっても、1月に入ってからやった席替えだから、隣の席でいられる期間は、他の席替えよりも断然短い。
授業もたいしてないし、テストが終わればほとんど休みのようなもんだから、実質1ヶ月もないくらい。
それまで大して話したことなんてなかったのに、隣になったらなったで、くだらない世間話や昨日のテレビの話とか、時々うちの部活の話をしたりして、けっこうよく話をした。
隣の席になった社交辞令みたいなもんで、メアドとケータイの番号の交換はしたけれど、互いに一度もメールも電話もしたことがない。
そのくらいの関係。
俺は何度かメールを送ろうか、って考えたけれど、どのみち翌日学校に行けば会うし、って考えたり、休みに入った今は、わざわざメールや電話をするようなことっていうのはそうそうなくて、結局やっぱりそのアドレスも電話番号もただ登録してあるだけ。
からもメールも電話も来なくて、お互い様だからこういうのもなんだけど、ちょっとつまらない、
とは思う。
だから今日、こうして会えたことに対して、ちょっと嬉しい、とか思う自分がなんだか気恥ずかしかった。



調理室の中は、甘ったるいにおいが充満していて、なるべくそのにおいの元から離れて座った。
「もう少しで全部揃うんだけど。ちょっと待ってて」
かちゃかちゃとボールの中身をかき混ぜながら、が言う。
チン、とオーブンが鳴って、がボールを台に置いてオーブンを覗き込んだ。
「お、いい感じ」
がちゃん、と扉を開いて出したのは、平べったいケーキみたいなやつ。
「なにそれ」
「これはブラウニー」
「いろいろあんだな」
「朝から作ってるからね。いい加減この匂いにもしんどくなってきたけど」
俺はすでにしんどい、って言おうかと思ったけれど、しんどい、って言ってる割には楽しそうなの顔を見ていたら言えなくなって、目の前に出されている紅茶を飲んだ。
「はい、お待たせー」
小さく四角く切り分けたブラウニーとやらを持って、エプロン姿のが目の前に立った。
あったかい甘い匂いが目の前にやってきた。
「試食会」
紅茶のカップを持って、が向かいに座る。
「好きなの食べて。美味しいのがあったら、今年の講習会とかで使うから」
言われて、机の上を見渡す。
トリュフやブラウニー、ムースや丸いケーキ、クッキー。その他にもありとあらゆるチョコ関係のお菓子が並んでいるようで、においをかいでるだけでもう腹いっぱい、って気分。
それでも食べないのは悪いから、手近なところにあったチョコをひとつ、つまむ。
案の定甘いけれど、市販のチョコ並に味は問題なくて、
「これ、旨いな」
そう言えば、目の前で心配そうな顔をしてこっちを見ていたが、安心したように笑う。
「良かった」
自分の正面にあったムースを取り上げて、一さじ口に運ぶ。自分で作ったくせに「美味しい」と笑うは幸せそうに見える。
他のも食べろ、と目が訴えてくるように感じて、さっきが持ってきたブラウニーを口にした。
予想外にあまり甘くなかったから、それなら、とクッキーに手を伸ばす。
クッキーは、大振りだけどシナモンが効いていて食べやすかった。
「これもけっこう旨いな」
半分まで食べたクッキーを軽く振った。
「あ、ほんと? そしたら、今年は部活用はクッキーにしようかな」
「いんじゃねーの」
どうせ俺もらわないからなんでもいいけど。
残りの半分を口に放り込んだ。
は、作るだけで誰かにあげたりしないんだろうか。
あげるための実験台が俺とか?
本当に講習会のためだけに、こんなに作ってんだろうか。
向かいに座るその顔を見ていても、答えなんて書いてあるわけなく。
そんなことを聞くのも躊躇われて、またクッキーを手に取った。
「ケーキとか、もらったら困るかな」
「でかいな、それ。一人で食うの無理じゃね?」
「一人で食べられるくらいのがいいよね、やっぱり」
ケーキを切り分けながら、が苦笑した。
そのケーキもこっちに分けられるのかと思ったら、うっかりため息が出た。
ごまかすように紅茶を飲んだけど、見逃さなかったようで、ちらりとの視線がこっちに振られる。
「武藤、甘いの苦手?」
「嫌いじゃないけど、部活辞めてから前ほど動かねぇから太りそうでさ」
「えー。そういうの、気にしてたんだ」
「部活辞めたら、体重くなった気がしてさぁ。別に太ったわけじゃねえんだけど」
器用に八等分したケーキは、俺の方には来ずに、隣の机に移動させられる。
「これはね、ホイップクリームつけて食べると美味しいの」
ケーキの隣には、さっきまでが混ぜていたボールが置かれる。
それなら食べればよかったな、とは思ったけれど、昼飯食ったばっかりだし、女と違って甘いものは別バラ、ってわけでもないから、もう限界。
「そっか。そういうの、気にしてたんだ」
さっきと同じ言葉を繰り返してから、ちょっと考え込んでる顔をしたが、
「じゃあ、カロリー控えめにしようかな」
独り言みたいに呟いたのが耳に入った。
誰にやるの、って聞こうと思ったけれど、顔を見れば耳まで赤くして目を逸らすから聞くのは止めた。
こっちもつられて赤くなりそうだ。
代わりに、
「俺、あれも食べてみたいけど、今は食えない」
さっきが隣に置いたケーキを指差した。
俺の指先を追うように隣に目をやってから、が小さく笑った。
「うん。じゃあ、別の日に、ね」




「別の日」の約束のために、から初めてメールが来たのは、その日の夜。